検察側の罪人 :: 雫井 脩介

2021年2月27日

検察側の罪人イメージ

本書『検察側の罪人』は、検察官を主人公として「正義」の意味を問う、じつに読み応えのあるミステリー小説です。

気楽なミステリーを期待する向きにはもしかすると合わない可能性もありますが、しかし読みがいのある作品でした。

東京地検のベテラン検事である最上毅は、大田区で起きた老夫婦刺殺事件の容疑者が、かつて今は時効となっているものの自分の想う人を殺したと確信する人物であることを知る。

この男が今回の事件の犯人であるのならば、今回こそは逃がさないと決意するが、最上の捜査方法に疑念を抱く人物が現れる。

それは自分の教え子でもある部下の沖野啓一郎という検事だった。

世の規範で断罪されない「悪」を、正義のヒーローが懲らしめるという物語は、池波正太郎の『仕事人シリーズ』を取り上げるまでもなく、古くからありがちな設定だと思われます。

この手の設定で問題なのは、世の規範に反したであろう罰されるべき対象の反規範性をどのように担保するかということでしょう。

仮に反規範性が確定されたとしても、罰の執行を個人に委ねるのであればそれは単なる復讐に終わってしまうし、反規範性の「規範」の意味すら不確定になってしまいます。

本書『検察側の罪人』で提起されている問題もまさにこの点にあり、最上自身が犯人だと断定されている男を個人的に断罪しようとするのです。

そもそも、現代の裁判制度自体が「正義」の実現に最も有効だということから採用されている制度でしょう。そこでは量刑の問題も裁判所の判断とされているのです。

では、現代の制度である裁判の間隙から抜け落ちた「不正義」はどうすべきか。

制度の欠陥だとして無視するしかない、というのも一つの意見かもしれませんが、そこには人間が存在しているのであり、単純に制度の欠陥として切り捨てて良いものではないでしょう。

そこで、当然のことながら、私的な制裁を加えることを是とする最上のような考え方が登場すると思われるのです。

池波正太郎の『仕事人シリーズ』の場合は、殺しの対象が本当に非難の対象になる人物なのか、仕事人一味による吟味は為されている設定だったと覚えていますが、その検証は結局は「仕事人」の判定に委ねられていて、恣意性の危険性を孕んでいます。

この『検察側の罪人』という作品の場合、犯人と目されている人物がかつての事件の犯人であることは自供という事実で確定していて、非難の対象であることは担保されていることになっているのでしょう。

本来は、この犯人であるという事実も裁判の対象となり、客観的な証拠などで更なる補強を得たうえで確定される必要はあると思われます。

もしかしたら、この点も問題となっているのかもしれないと、本稿を書きながら思いました。

その点は一応置くとして、問題は、刑罰の執行を最上自身が個人的に行おうとする点の評価であり、それに異を唱えるのが沖野ということになります。

ここにおいて、最上と沖野との関係が描かれ、正義とは何か、法とは何かが読者に問われているのです。

私個人としては結論が出てない問題であり、これからも考えなければならない点だとは思われます。

本書『検察側の罪人』での二人の関係の描写は、さすがに雫井修介という名手の手になる作品だけあって読みごたえは十分であり、非常に惹き込まれて読んだ作品でした。

映画では沖野啓一郎を演じる二宮和也がなかなか良かったのですが、正義とは、という問いに明確に応えるものではなかったように感じた作品でした。