水の中の犬 :: 木内 一裕

2016年5月30日

矢能シリーズ

本書『水の中の犬』は矢能シリーズの第一巻で、三つの中編からなるハードボイルド作品集です。

取るに足りない事件
恋人の山本浩一という男の弟からレイプされた田島純子は、弟の克也には死んでほしいもののどうすればいいのだろうかと言ってきた。

死ぬ迄にやっておくべき二つの事
吉野深雪という娘が、麻薬でつかまったことのある兄を探して欲しいと訪ねてきた。一方、山本浩一が田島純子に殺された。面倒なのは浩一が菱口組若頭補佐笹健組組長の笹川健三の息子だということだ。

ヨハネスからの手紙
「不公平は是正されなければならない。」という内容の手紙をもって黒木柚子という女が訪ねてきた。娘の栞が殺されるというのだった。

本書から始まる「矢能シリーズ」は、ヤクザ上がりの矢能という名の私立探偵を主人公とするハードボイルドタッチのミステリーシリーズです。

ところが、本書『水の中の犬』は、他では誰も引き受けようとはしない面倒な依頼を引き受ける名前も明かされてはいない私立探偵が主人公となっています。

つまりは、本書『水の中の犬』は「矢能シリーズ」のプロローグ的な存在であり、矢能が小学生の女の子「」と共に暮らしている経緯が語られているのです。

だからという言うわけではありませんが、本書『水の中の犬』は以降の「矢能シリーズ」とはその雰囲気がかなり異なり、暗く、重苦しいタッチで進んでいきます。

本書の主人公である名無しの探偵は、いつも暴力的に痛めつけられながらも依頼の調査を続け、結果として救いのない結末が待っています。

この名無しの探偵自身が生きていてはいけないと思い込んでいるようなところがあり、だからこそいつも身の危険を察知しながらも、その危険に飛び込んでいくのでしょう。

本シリーズの重要な登場人物の一人である情報屋に言わせると、名無しの探偵は依頼の事件の「当事者になっちまう」のであり、「いつだってお前が暴力を誘ってる」ことになるらしいのです。

一応、本書は三つの中編で構成されていますが、三つの話は相互に関連していて、次巻『アウト&アウト』からの主人公になる矢能や、矢能が庇護することになる栞という女の子が登場し、名無しの探偵が退場する過程が説明されています。

名無しの探偵と矢能とは最初は敵対関係にありますが、いつの間にか矢能は探偵に対し「お前がくたばったら・・・あとは俺に任せろ」というほどに心が通じ合う仲になります。

そして、矢能が属している組が解散するときには、自分は探偵になれるかと相談をしますが、名無しの探偵からは探偵には向いていないと言われてしまいます。

でも、結局は探偵から栞を任せられることになり、探偵として生きていくことになるのです。

あえていうと、本書『水の中の犬』は暗く、救いがありません。ただ、栞の存在がひと筋の灯りをともしてくれるだけです。

それでもなお、矢能に後を託す名無しの探偵の生きざまは何故か心に残ります。自分を破滅に追いやるその生き方は決して肯定できるものではないけれど、物語の主人公としては妙な魅力があります。

矢能と男と男の付き合いができる、そのことが琴線に触れるのでしょう。

当初はシリーズ化を狙っていたものではないと思われる本書『水の中の犬』ですが、矢能という魅力的なキャラクターを新たに鍛え上げることによって、続編が期待されるシリーズ物となっています。

そして事実、まだ次は出ないのかと続編を心待ちにしているのです。